『越後獅子』とは、
新潟県新潟市南区(旧西蒲原郡月潟村)を発祥とする郷土芸能です。
角兵衛獅子(かくべえじし)もしくは蒲原獅子(かんばらじし)とも呼ばれています。
いわゆる、7、8歳から14、5歳の子供が中心として演じる獅子舞の大道芸・門付け芸のことで、
春の風物詩として、越後地方から出てきて江戸や上方の街角を巡業していました。
その出で立ちは、
しま模様のもんぺと錏(しころ)の付いた小さい獅子頭を頭上に頂き、
獅子頭の毛には鶏の羽根が用いられ、
錏には紅染の絹の中央に黒繻子があしらわれていました。
現在でも、
地元の夏祭り『月潟まつり』(角兵衛地蔵尊祭)等で地元中学生らによって演じられているそうです。
越後獅子(角兵衛獅子)の由来
水戸の浪人、角兵衛が殺害されたとき角兵衛が犯人の足指をかみ切っていたことから、息子角内・角助兄弟が仇討ちのため逆立ちの芸を演じ「あんよを上にして、あんよの指の無い者に気をつけて見なはれ」とやったのが由来という説と、
月潟村(新潟県)の水害による飢饉の口減らしのため獅子踊りの芸を仕込んで収入にしたという説があります。
越後獅子は、
嘉永年間以前から上方や江戸の市中に流行したらしく、
これを題材として、
まず天明の頃、大坂の峰崎勾当により手事物の地歌『越後獅子』が作曲されました。
同曲は器楽性にすぐれ、三味線の技巧が高度に追求された楽曲でした。
これを元に江戸の九代目杵屋六左衛門が文化11年 (1814)、
七変化舞踊『遅櫻手爾葉七文字』(おそざくら てにはの ななもじ)の伴奏曲の一つとして
長唄の『越後獅子』を編曲・作曲し、
三代目中村歌右衛門により中村座で初演され大当たりとなりました。
また、時はくだり・・・、
越後獅子は歌謡曲にもなっています。
『越後獅子の唄』西條八十作詞、万城目正作曲として、美空ひばりが唄ったのは、皆様の知るところです。
また、
ロシアの作曲家セルゲイ・プロコフィエフは、
大正7年 (1918) の日本滞在中に覚えた越後獅子の旋律を
彼の代表作のひとつであるピアノ協奏曲第3番の最終楽章に転用したといわれています。