歌舞伎研究家の「郡司正勝氏」が、
日本の伝統の中で舞踊の古典伝承について下記の様な見解を述べられています。
大変厳しい見解ですが、
彼のことばを読み返すとき・・・、
古典に携わる一人として、
心に強く感じ入り、
高きプライドを持って肝に銘じるとともに、
その継承の重要性を認識させられます。
抜粋して紹介させていただきます。
『創作とは、本来、古典への挑戦であって、古典を食い荒らすことではない。古典への反逆によって、みずから古典になることである。そして、このとき、はじめて、古典を継承したことになるのである。
古典とは、逃げこむための父母の故里に甘えることではなく、厳しく現代を批判しうる力となることである。単に故里であるゆえに伝統なのではない。
古典を、単に古いものと感ずるような人は、新作ができようはずがないので、古典のなかに、おのれをみかえす厳しい眼を感ずる人のみが、ほんとうの意味で、新作にたずさわりうる資格のある芸術家だといっていいと思う。
新作とは、現代の歴史に参与することなのである。かつて、古典が、その時代時代の歴史を代表してきたように。そういう意味で、新作は、伝統をつぐことになる。単なる古典の模倣ではないのである。
楽しいということ、美しいということ、それは、舞踊の本質であるが、単なる時間つぶしの楽しさ、美しさでは芸術ということはできない。
おそらく娯楽ということもできないのではないかと思う。楽しさ美しさのも、ピンからキリまであって、最低ならまだよいが、マイナスのものすら多いのである。単に、楽しい、美しいということばにひっかかってはならぬと思う。
それは、意識すると意識しないとにかかわらず、舞踊家は、そのために命を燃やすものであるということを、はっきりと認識すべきだと思う。
そこで、古典を勉強する人も、常に現代に生きている自分が、常に古典の生命を、たえず新しく発見していくということを忘れるべきではないし、それによって、古典は立派に継承されてゆくべきである。
古典舞踊家は、そこで、なまじ安っぽい新作舞踊家より高次な芸術家たりうる。
ここで、あさはかな古典の修正者になることは禁物で、古典の古さが現代にうけないからといって、自分流のつまらぬ個性で、しかも大衆うけするからといって、古典をいじくりまわすことは、古典の敵であるばかりでなく、新作にとってもマイナスであるといっていい。そこには内省の厳しさに欠けるからで、まず芸術家としての、第一の資格に欠けることになる。古典は永遠に生きてゆかねばならぬもので、なまじ現代化した古典は、その時点では喜ばれても、次の時点では捨てられる運命にあるといわねばならぬ。
古典は、現代をも超越して、永遠の未来に生きねばならぬもので、古典継承者は、その未来の命に、プライドをもって自分を捧げるものであると思う。しかも、一方では、舞踊は生きものであり、みせる者とみる者の相対的な関係によって、生きてゆくものであるから、意識的無意識的にかかわらず、変化はまぬがれ難い。これが、他の絵画や彫刻などの芸術とちがうところである。
そこで、どこまでも古典に対しては、意識的に、これを現代に自分の技術で近づけようとするのではなく、古典のなかに、現代の生命を発見してゆこうという態度をとるべきだと思う。
自分でわからぬもの、見物にわからぬものを、勝手に切り捨てたり、すりかえたりすべきでない。これほど古典を冒涜するものはない。
わかるまで追求すべきであり、わからねば、そのまま次の世代にゆずるべきものである。』
人気ブログランキングへ!