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八島考 -その2-

もう4年ほど前になるでしょうか?

一泊二日の八島(屋島)への小旅行は・・・。

『八島』を舞う弟子と共に訪れた四国・高松の町。

何よりも印象的だったのは・・・、

屋島と書くごとく、大きな屋根がぽっかりと乗った様な瀬戸内海を大きく見下ろす屋島の半島でした。

屋島の歴史は古く・・・、

元来、その地形を活かし屋島は原始・古代以来備讃瀬戸の交通の要であり軍事上の要衝であったようです。

 「日本書紀」天智天皇6(667)年11月の条に「讃岐国山田郡の屋嶋城・・・・を築く」

とあるように、白村江の敗戦により対外的危機感が高まり、既にこの時期に屋島にも朝鮮式山城が築かれたようです。

今は、江戸時代の埋め立てにより四国と陸続きの半島となっていますが、

その頃は、ひとつの島・つまり要塞としては抜群の地形となる…山城-屋島だったようです。

そして、時は過ぎ・・・

源平の戦いにおいても、この屋島が、一つの大きな戦いの節目となる舞台となりました。

一ノ谷の戦いで敗れた平氏は、この屋島に安徳天皇の内裏を置き陣を構えました。

元暦2年(1185年)2月、源義経は渡辺の津より阿波勝浦へ上陸後、

在地武士を味方に引き入れて屋島の平氏本陣を攻め落し、

彼が華々しい活躍をしたのは周知のとおりです。

平家物語の“義経の弓流し”や“那須与一の扇の的”のエピソードで知られる『屋島の戦い』です。

先に書いたように、4年前、

私達もこの平家物語に思いを馳せ、屋島の古戦場を訪れた・・・というわけです。

思い入れの激しい私達とって、

当時とはずいぶんと様相が変わったであろう高松の町で、

その面影を偲ぶことはそう容易い感じではありませんでした。

かつては海であったであろう古戦場には、家が立ち並び、車が往来しています。

しかし、そんな町のあちらこちらに、

義経の弓流しの跡をはじめ、那須与一の祈り岩に駒立岩、景清錣引伝説、佐藤忠信の碑、船隠し・・・

などの案内やら名所点在し、

弟子と一緒に四苦八苦しながら地図を片手にその場所を巡りました。

地の利の分からない土地で、その名所を見つけるのは結構大変で、思うように全てを巡ることは出来ませんでしたが、

人間とは妙なもので、その場所を見つけるたびに喜びがありました。

一所懸命に古戦場跡を、点から点へと廻っていた時には気が付かないことも、

ケーブルカーで屋島の頂上に上がり、上から高松の町を見たときにわかる事がありました。

瀬戸内海の穏やな海の表情と高松の町を見下ろしていると、

源平の戦いの頃と今とここ(今ここに立っているわたし)・・・

過去と現在の時間が一瞬にしてかけ廻り、繋がった感じがしました。

悠久のときの流れを感じると同時に、

かつてこの地で、日本の歴史の流れを大きく変える事件が起きたのか…などと考えると、

非常に感慨深いものがありました。

お天気がよく、波が穏やかで、日差しが温かかったのが、かえって反対に、

激しい源平の戦いの面影に思いを馳せることができたのかもしれません。

牛に引かれて善光寺参りではありませんが・・・

弟子に引かれていった屋島の旅ではありましたが、

屋島の大きな屋根とその上から見た瀬戸内海の風景は、

わたしの『八島』の舞に大きなイメージをもたらしてくれました。

そして・・・

屋島より帰りしなに、

もう一つの目的地、珠取海女の舞台となる『志度寺』に立ち寄り、

思わぬ奈良との縁を始めて知り、気をよくして帰りました。

またこのことは、別の機会に記したいと思います。

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