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珠取海女考 -その3ー

志度寺(海女の玉取り伝説)について

  

 志度寺は、寺伝(縁起)によると 推古天皇(在位592~628年)の時代の626(推古天皇33)年に海洋技能集団海人族の凡薗子尼(おおしそのこに。智法尼とも)が、志度湾に漂着した霊木で十一面観世音菩薩を刻み安置したのがはじまりで、推古天皇の勅願所に定められたという、四国霊場屈指の古刹である。

 

その昔(1300年前の)天智天皇のころ、藤原不比等(ふじわらふひと)が亡父鎌足(かまたり)の供養に奈良興福寺の建立を発願した。唐の第3代皇帝高宗に嫁ぎ妃となっていた不比等の妹の白光は亡き父の供養物として中国に二つとない三つの宝珠を不比等に届けようとした。ところが、宝珠を積んだ船が志度の浦にさしかかったとたん嵐が起こり、宝珠の一つの「面向不背(めんこうふはい)の玉」が龍神に奪われてしまった。

 

不比等はこの玉を取り戻そうと、身分を隠して志度の浦へやってきて、ここで漁師の娘であった純情可憐な海女と恋に落ち、房前(ふささき)という男の子も授かり親子3人で幸せに暮らしていました。不比等は数年後、素性を明かし、玉の奪還を海女に頼む。不比等が志度の浦に来た本当の理由を知った海女(妻)は、愛する夫のために玉を取り戻そうと観世音に祈願し、その代わり、房前を藤原家の跡取りに約束してください」と、死を覚悟で龍竜宮へ潜っていった。海上で待つことしばし。海女の合図で命綱をたぐった不比等の前に現れたのは、見るも無惨な海女の姿でした。海女は間もなく、不比等に抱かれたまま果てたが、玉は海女の命に代えて縦横に切った乳房の中に隠されていたのである。

 

不比等は、その菩提を弔う妻の墓と5間4面の堂を建立して「死度道場」(学問の道場)と名付けた。いうまでもなく、その玉は奈良の興福寺に納められた。興福寺の本尊である釈迦如来像の眉間に収まっているとも言われている。681年(天武天皇10)のことである。

 

房前はのちに藤原家を継ぎ、大臣となった。ある日父より母である海女のことを聞かされ、行基を連れて志度を訪れ、志度寺の西北一丁あまりの所に千基の石塔を建立し、法華八講を修して亡き母の菩提を弔った。

毎年海女の命日である6月16日には大法会が行なわれ、十六度市が立ち、千三百余年の昔をしのぶ供養が今もなお続けられている。