【地歌舞 鉄輪(かなわ)】
舞華会、最後の舞は、本行ものの『鉄輪』でございます。
今回は大変嬉しいことに、鉄輪を舞うということで貴船神社の高井宮司がご参加くださることになりました。そして、貴船と鉄輪について直接お話をしてくださることになりました。私どもも大変楽しみにしております。
地歌舞の中では、女性の怨念ものを扱った作品として代表されるものに、この『鉄輪』と『葵上』がございます。ともに、能から取材した大変重たい作品です。
よく対比されるのは、葵上は、主人公が先の帝の后として高貴な身分の女性の強い嫉妬として描かれ、一方、鉄輪の女性は、都の女・ごく一般の女性の嫉妬心を描いております。
葵上では、自分では抑えたくても抑えきれない内面の業が、無意識のうちに生霊となって、相手の女性に襲い掛かります。プライドの高さが、嫉妬をしている自分さえ許すことが出来ません。極めて、内面の抽象的な表現になります。
他方、鉄輪では、自分から復讐するために鬼になることを貴船の神に丑の刻詣りの祈願し、あげくの果て形相恐ろしい『鬼』となり、後妻打ち(うわなりうち)に出かけます。葵上に比べ非常に具体的でわかりやすい舞の表現になります。
両方とも、祈祷師に阻まれ念願を果たすことなくできず物語は終わりますが、鉄輪の鬼は「また来るな」と言い放ち消えていきます。
しかし、能の場合、葵上は「般若」・鬼女の面を使い、鉄輪の面は鬼ではなく「生成・なまなり」という鬼になりきれない人間の情をのこした面を使うそうです。私は、このことが非常に両作品の本質を表しているような気がいたします。
【解説】
『鉄輪』は、「本行物」といって同じ題名の能の作品に基づいて出来た作品です。
元々は、平家物語「剣の巻」の中から題材を取られたもので、その内容は、都に住む女が愛する夫に裏切られ深く恨み、嫉妬のあまり山城国の貴船神社の丑の刻参りをすることを決意します。丑の刻参りとは、真夜中に絶対に人目につかぬようにして怨みに思う女の人形をつくり、神社の大木などに呪いながら釘を打ちこんで殺そうとする祈念の仕方のことです。
愛するがゆえに逆に恨み嫉妬の念にかられ、自らを「生霊(いきりょう)」・「鬼」と化す、凄まじい姿がそこにあります。話としては、その呪いと祟り(たたり)は、阿倍清明という呪術師に阻まれ、逆に調伏(ちょうぶく)され退散することになります。
その失敗によって、女は残忍非道の殺人という罪を犯すということからは救われますが、一度「鬼」と化した自らを浄化することも出来ず、救いようのない世界〈地獄〉に投げ出されることになります。
愛と裏切り・怨みと嫉妬の凄惨さとやるせなさを地歌舞特有の抑えた表現で舞います。また、このドロドロとした悲劇とその残忍な心象風景いかに品よく舞うかという点が難しさでもあり、見所となっております。
歌詞
忘らるる、身はいつしかに浮き草の、根から思いの無いならほんに、誰を恨みんうら菊の、霜にうつろう枯野の原に、散りも果てなで今は世に ありてぞ辛き我が夫の。
悪しかれと、思わぬ山の峰にだに、人の嘆きは、生うなるに、いわんや年月、思い沈む恨みの数、積りて執心の鬼となるも理や。
いでいで恨みをなさんと、笞(しもと)振り上げ後妻(うわなり)の、髪を手に絡巻いて、打つや宇津の山の、夢現とも別かざる浮世に、因果は巡り合いたり、今更さこそ悔しかるらめ、さて懲りや思い知れ。
ことさら恨めしき、徒し男を取って行かんと、臥したる枕に立ち寄り見れば、恐ろしや御幣(みてぐら)に三十番神ましまして、魍魎鬼神(もうりょうきじん)は穢らわしや、出よ出よと責め給うぞや、腹立ちや思う夫をば、取らで剰(あま)さえ神々の責めを蒙(こうむ)る悪鬼の神通、通力自在の勢い絶えて、力も弱々と、足弱車の巡り合うべき、時節を待つべしや、先ずこの度は帰るべしと、言う声ばかりは定かに聞こえ、言う声ばかり聞こえて、姿は目に見えぬ鬼とぞなりけり。
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平家物語剣の巻《宇治の橋姫伝説》
嵯峨天皇の御世(809年-825年)、とある公卿の娘が深い妬みにとらわれ、貴船神社に7日間籠って「貴船大明神よ、私を生きながら鬼神に変えて下さい。妬ましい女を取り殺したいのです」と祈った。明神は哀れに思い「本当に鬼になりたければ、姿を変えて宇治川に21日間浸れ」と告げた。
女は都に帰ると、髪を5つに分け5本の角にし、顔には朱をさし体には丹を塗って全身を赤くし、鉄輪(かなわ、鉄の輪に三本脚が付いた台)を逆さに頭に載せ、3本の脚には松明を燃やし、さらに両端を燃やした松明を口にくわえ、計5つの火を灯した。夜が更けると大和大路を南へ走り、それを見た人はその鬼のような姿を見たショックで倒れて死んでしまった。そのようにして宇治川に21日間浸ると、貴船大明神の言ったとおり生きながら鬼になった。これが「宇治の橋姫」である。-Wikipediaより抜粋-