国稚(ワカ)く浮ける脂(アブラ)の如くして、海月(クラゲ)なす漂へる時、
葦牙(アシカビ)の如く萌え騰(アガ)る物によりて成りし神の名は、
宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジノカミ)・・・
古事記に、
『あぶらの如くクラゲなす』漂えるとき、
『あしかびの如く』萌えあがるものあり・・・、と世の始めのことを語っています。
一書に曰く、古(いにしえ)國稚(わか)く、地(つち)稚(わか)き時に、
譬えば浮かべる膏(あぶら)の猶(ごと)くして漂蕩(ただよ)えり。
時に國の中に物生れり。 状(かたち)葦牙の抽(ぬ)け出でたるが如し。
此に因りて化生(なりい)づる神有り。
可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)と號す。
日本書紀では、
原初の国と生命の誕生を
『浮かべるあぶらのごとくして漂蕩(ただよ)えり。』
古事記も日本書紀も、生命の誕生の様子を、
ふわふわとした虚と実の境界物から、
極小・ミクロの芽が、忽然と『立ち生まれ』この世が始まったとしています。
無『虚』 と 有『実』 の 行き交い差し代るあたり・『境界域』では、
有『実』が忽然と立ち消え、あるいは、虚『無』から有『実』が、忽然と立ち生(現わ)れます。
この世も神も、彼と此の境界域で忽然と立ち現われたり、忽然と消え去る性格をもつようです。
立ち消え・立ち去る・立ち生(現わ)れる・・・
『立つ』と云う語には、この無『虚』と有『実』の境界域における『事象』にかかわる『語』のようです。
山から霧が立ち、
地面から霜柱が立ち、
空に雲が立ち、霞が立ち、虹が立ちます。
涼風が立ち、荒波が立ちます。
ビールの泡が立ち、
夢枕に亡霊が立ち、
噂も立ちますが・・・、
名も立ちます。
気が立ったり、腹が立ちます。
腕が立ったり、弁が立ったり、役に立ったり・・・、
面目が立ち、義理が立ちます。
『立つ』という言葉は面白く・・・、
あらゆるものが立ち現われ、立ち消えているようです。
『見立て』という言葉があります。
普段、私たちは、
着物や洋服を『見立てる』という言葉を使います。
生活になじんだ言葉といえましょう。
舞の世界においては、
この『見立て』ということは大変重要で、
様々な『振り』は、『見立て』を前提としています。
ここに『衝立(ついたて)』があるとします。
衝立を立てた両側に、席があり、人もいたとします。
しかし、席に座ると、『衝立』の向こう側の席や人は忽然と消え去り気にならなくなります。
『衝立』という道具のマジックとも言えます。
『見立て』という言葉の世界は、このあたりに根を持っているような気がします。
日本舞踊においては、
『見立て』を使った様々な舞振りが付いていて、
暗黙のうちのコミュニケーションツールとなっています。
『見立て』・・・。
興味が尽きません。
私なりの考察をしていきたいと思っています。