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転害会



 本日、
手向山八幡宮のお祭り『転害会』は、いいお天気に恵まれました。
毎年、宵宮祭には、舞を奉納させていただいているものの、、
肝心の本宮の『転害会』には、お参りさせていただいたことがなかったのですが、
お陰様で、今年は その機会に恵まれました。
きたまち寺子屋(仮称)で、転害会を中心にきたまちを散策することになりました。

お天気にも恵まれたせいか、たくさんの人が見に来られていました。
 

◆転害会(てがいえ)の由来
東大寺の鎮守の手向山八幡神社の祭礼のことで、手掻会(てがいえ)とも書かれます。平安時代には八幡宮祭と呼ばれ、転害門が祭礼のお旅所になり、鳳輦(ほうれん)と神輿の三基が門の中央に安置され、門の西面に長い大きな注連縄が結わえられます。祭礼の行列はここから出発し、手向山八幡宮に向かいます。この八幡宮祭が転害会と呼ばれるようになったのは、この門の位置が大仏殿の西北にあり、吉祥の位置で害を転ずる意から転害門とも呼ばれ、祭礼の名前にもなりました。

転害会のあとは、澄みきった秋空の下で昼食となりました。
お昼からは、年に1度公開される東大寺の勧進所へ・・・。
   

公慶上人坐像、

五刧思惟阿弥陀如来、

そして、
八幡さんの御神体であった、僧形八幡神坐像を拝させていただきました。
 公慶上人坐像

公慶上人(1648~1705)は大仏殿および大仏の江戸再興にその生涯をかけた僧であり、東大寺では鎌倉時代の俊乗房重源に次ぐ、第二の中興開山といわれる。
公慶上人(1648~1705)は大仏殿および大仏の江戸再興にその生涯をかけた僧であり、東大寺では鎌倉時代の俊乗房重源に次ぐ、第二の中興開山といわれる。

 
この可愛らしいアフロヘア^ーの阿弥陀さまは、
五劫思惟阿弥陀如来さまです。


五刧思惟阿弥陀如来は、
阿弥陀如来の異形のひとつで、経説によると四十八の大願を成就するために永い間、
剃髪をすることもなく坐禅・思惟していたので、このような髪形になったという。
劫とは永い時間を示す単位で、
方四十里もある大磐石を百年に一度ずつ白氈で払って、
その石がすりきれてなくなっても終わらない時間だといい、要するに永遠・無限をさすものらしい・・・。

僧形八幡神坐像 


僧形八幡神坐像は、
東大寺の鎮守八幡宮(現在の手向山八幡神社)の御神体であったが、
明治初年の神仏分離・廃仏毀釈によって、東大寺に移されたもの。
同宮は、治承4年(1180)12月の平氏の焼き討ちにより炎上したが、
造東大寺大勧進俊乗房重源上人により再建された。その際、焼失した御神体の新造が計画された。
 

東大寺ホームページより抜粋