見立て考 ‐その2‐

 舞の世界において、
『見立て』ということは大切なことです。
様々な『振り』は、この『見立て』を前提としているといっても過言ではありません。
落語家が、おいしそうにお蕎麦を食べる場面を想定してください。
左手にそば猪口(ちょこ)を、右手に扇子をお箸に見立てて、おいしそうに食べるシーンです。
観客の目には、
そば猪口やお箸,ざるに盛られたそば、
そして、お箸でつまみあげられたそばが、ありありと見えます。
そして、
思わず、のどごしのそばの美味しさに、生つばをのむということになります。
『無いものを見る』・・・。
その『虚』を『実』として、実感・体感するのです。
しかも、その虚は、
すぐれた演者の話術や写実力によって、そのそばは実に美味しく感じられます。
時には、
実以上のの実を実感する場合もあります。
舞の世界における(舞だけではありませんが・・・)
演者と観てのあいだにおけるコミュニケーション、メッセージと共振、共感は、
この『見立て』です。
奇妙な『了解』型、以心伝心の文化原理の上に成立しているのです。
芸においては、
事象・現象から、より抽象的な見立て・心理風景へ移ってゆきます。
あまり露骨な見立て芸は、『あて振り』といった下品な芸になりかねないことになります。
特に、地歌舞の世界では、
素で舞うことを旨としますので、
わざとらしい表現を善しとしません。
また、
小道具はあまり使われず、お扇子1本でこの『見立て』技法を使って、
あらゆる心象風景を表現していくことになります。
そういう意味でも、お扇子は舞手の命と云っても過言ではありません。
お扇子を自分のからだの一部のようになるまで稽古を重ねていきます。
ついつい技巧が優れてくると、このあてぶりに堕ちりやすいので、
舞手は、確と心を戒めなくてはなりません。
そこが、難しくもありおもしろくもあるところです。
『無いもの』が、そこに『立ち現われる』・・・。
あるいは、
衝立ひとつで、隣の席(空間)と人が消え去り無いものになる・・・。
有と無、虚と実が入れ代わり、差し代わります。
『見立て』・・・。
人間がもつ、たいせつな楽しみ・・・、そして、イメージ力の一つだと思います。

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