一気に春らしくなりました。
桜の便りがあちらこちらで聞こえ始め、
一年でもっとも華やかな季節を迎えようとしています。
先月、
奈良の手貝町(てがいちょう)では、弁才天・八鐵神社が自治会の方々により新しく建て直されました。
手貝町は、
中世の頃は、『手掻郷(てがいごう)』といわれ、旅宿が立ち並び大変に賑わったそうです。
その名前の由来は、
私が毎秋、奉納をさせていただいている手向山八幡宮祭と縁深く、
その秋のおまつりの別名を『転害会・手掻会(てがいえ)』と云います。
おまつりのメイン会場となるのが、
手貝町の南に位置する『転害門(てがいもん)』で、
本宮から遷された神輿の御旅所となり、天平時代の建物らしく威風堂々とした国宝の門構えです。
東大寺は何度か焼けましたが、この転害門は一度も焼けていません。
昔は、祭礼の際、舞楽や田楽の奉納などがずいぶん盛大に行われたようです。
まるで春日大社のおんまつりのようだったのではないでしょうか。
私としては、ぜひとも復活してほしいなあと思っています。
その様子は、手向山八幡宮所蔵の『転害会図』(絵巻)からうかがえます。
手向山八幡宮は、かつて東大寺八幡宮、南都八幡宮とも呼ばれ、東大寺三月堂の南、手向山を背景に鎮座しています。由来は、東大寺の大仏鋳造の際、その守護神として現在の九州大分県の宇佐より八万神を勧請(来るようにと請い願うこと)したことにはじまります。当社に伝来する祭礼「手掻会(てがいえ)」は、転害会、碾磑会とも記し、八幡神を宇佐から勧請した際の行列の様子を再現したものと伝えられます。南都で最古式の盛儀とされた手掻会も、明治時代の神仏分離の余波を受けて次第にその規模が縮小され、今日では本殿および転害門において祭式がとり行われるのみとなっています。当社に伝存する神輿や唐鞍をはじめ、手掻会に関連する絵画や工芸の数々を通じて、かつては大和一の祭礼と言われた盛大な祭式と行列を誇った手掻会です。
実は、この門いろんな名前を持ち、『景清門』とも呼ばれています。
これは、
大仏供養に出かける源頼朝を討つために、平景清がこの門に身をひそめて隠れていたところからつけられた俗称です。
今でもその時につけられた傷が残っているとか・・・。
話は、ずいぶん横道に逸れましたが・・・、
4月21日、
弁才天・八鐵神社の新社殿のお祝いが手貝町の会所で行われることになりました。
その祝賀会にて、
地歌舞を奉納させていただきます。
町の小さなお社ですので、
場所を移して、会所にての奉納になりますが、
神様と地元の方に喜んでいただけるように真心を尽くして舞わせて戴きたいと存じます。
芸能に深い弁財天様のお社とお聞きし、大変光栄に感じています。
4月21日午後1時半より、
地歌舞 『萬歳』 と 地歌舞 『浪花十二月』
を、奉納させていただきます。
改修前の弁財天・八鐵神社
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まとめteみた.【手貝町弁才天・八鐵神社新社殿祝賀会 奉納】
一気に春らしくなりました。桜の便りがあちらこちらで聞こえ始め、一年でもっとも華やかな季節を迎えようとしています。先月、奈良の手貝町(てがいちょう)では、弁才天・八鐵神社が方々により新しく建て直されました。