ならまち格子の家上方舞鑑賞会報告、そして・・・。

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今日のならまちは大変賑やかでした。
昨日と今日のお天気に恵まれた連休は、格好の行楽日和でした。
本日のならまち格子の家上方舞鑑賞会は、盛況のうち無事に終えることができました。
お越しいただいた皆様、スタッフの皆様ありがとうございました。
DSC_0136.jpg うなぎの寝床のような奈良町特有の格子の家のおくどさん
本日の担当は、
若乙女と私、
演奏は、
菊寺智子さんと菊萌文子さんでした。
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まずは、若乙女の『八千代獅子』。
みなさまお馴染みの格調高く、曲調の美しい曲です。
江戸初期に流行していた民俗芸能の“獅子”舞の囃子の部分を発展させて、地歌に移した手事もので、
1782年刊「歌系図」に拠ると、元来尺八の曲であったものを胡弓の曲となり、
さらに三絃の曲となり流行ったようです。
次に、
菊寺智子さんと菊萌文子さんによる『狐の嫁入り』の地歌演奏。
DSC_0134.jpg  そして、私の『斎藤太郎左衛門』『いざや』『木津川』でした。
斎藤太郎左衛門 は、
文化10年(1813)正月大坂の中の芝居、
三世中村歌右衛門の大切所作事『慣ちょと七化』の座頭に取り入れられています。
義を通した骨太な武士の鏡として人気の斎藤太郎左衛門に事寄せて、
恋の口説きを歌った軽妙な座敷曲です。
いざや は、
大阪から程近い住吉大社に、船に乗り込み芸子を引き連れて大尽遊びをした情緒を描いた曲で、
 
歌舞伎の下座音楽や落語のはめものとして親しまれた軽やかな歌です。
そして、
最後の 木津川 は、
三世中村歌右衛門作詞作曲で、当時よくはやったと言われる上方歌の小品です。
山の端から出ずる月、木津川に舞い散る紅葉・・・、
秋のもの悲しく静かな風情を
美しい歌詞と縁語、掛詞を巧みに使いながら歌った名曲です。
あらためて歌右衛門の非凡な才能に感心させられます。
習った頃にはわからなかった 地歌の良さが感じられる・・・私の好きな作品の一つです。
理屈抜きに 風情の美しさと、そこはかとない悲しさが心に残ります。
木津川の美しい歌詞を紹介いたしましょう・・・。
上方歌 木津川
折から月の出汐や 流るる方は木津川へ 漕ぎ紅に染込みし
紅葉故郷へ錦せん 散りゆく葉末ははらはらと 降るは涙か秋雨か
しかとはならん かわづつみ
―追記―
木津川・・・その畔は、
平清盛の五男・重衡が南都焼亡の罪で、斬首をうけた悲史の残る所以の地です。
重衡は、牡丹の花と称されたほどの美男子で、享年29歳でした。
文治元年(1885)、重衡の遺骸は捨て置かれ、
首は南都・般若寺の大鳥居の前に釘付けされたといいます。
その斬首されたとされる木津川近くにある安福寺に重衡の供養塔があり、
安福寺の北西に「首洗池・くびあらいいけ」と「不成柿・ならずのかき」があるそうです。
池は、重衡の首を洗ったと伝えられる池で、
傍の柿の木は、重衡が切られる前に名残に食べた柿の種を里人が哀れに思い植えたもので、
成長した実がならないことから「不成柿」と呼ばれるようになり、
現在の木は代替わりして秋には身が実っているとのことです。
また、
重衡は、処刑される前に近くの寺(安福寺と言われている)から阿弥陀如来像を持ち出し
木津川の土手に安置しその像の片手に紐をかけ、
一方を重衡が持って「浄土に迎えられますように」と念仏を唱えながら斬首されたと伝承されています。
源平の戦いの悲しい物語がここ木津川にも残っています。


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