からくり的考 -その3-

からくり人形の歴史は、相当古いようです。

その起源を辿ると、古代エジプトにおいて「カー」と呼ばれた神像にまで遡ることができます。
同じ頃、中国では「指南車」という戦車の一種が造られています。歯車の噛み合わせによってどちらに動いても人形はたえず南を向いているというものです。

日本においては、斉明天皇4年(658)に法門智踰、?指南車を造る?と「日本書記」に初お目見えします。
次ぎに、平安時代の嘉承元年(1106)『今昔物語』に高陽親王が作ったとされるからくり人形の事が載っています。このからくり人形は、両手に器を捧げ、器に水を満たすと水が童子の顔にかかるという仕組みのものです。
その後、めざましい発展を遂げたのは、人形浄瑠璃を語るとき忘れては成らない人物の、ごぞんじ 竹田一族です。
阿波国出身の竹田近江・清房は、十七世紀前半、江戸に出て、からくり人形の基となる「仕掛け」を考案したり「砂時計」を作つくり、寛文二年(1662)に大坂道頓堀に「竹田からくり芝居」(小屋)を創立、竹田兄弟は芝居、浄瑠璃の発展に大きく貢献したのです。当時の隆盛やいかに・・・「竹田からくりを見なければ、大坂に来た甲斐がない」とまで言われたほどです。

また、からくりなどの人形を扱っていた人達は、?くぐつ傀儡師?と呼ばれた漂泊の芸能集団でした。古来、首から箱を提げて人形を巧みに操って全国を歩き回り、えびす信仰などと結びつきながらずいぶんと活躍していたようです。

?くぐつ?という言葉の歴史も相当古く、すでに「万葉集」に登場しています。

    潮干の御津の海女の 藁袋(くぐつ)持ち
             玉藻刈るらむ いざ行きて見む

ここでの「くぐつ」というものは「莎草(くぐ)」という植物で編んだ籠のことで、当時海女達が海で採った海藻などを入れていたようです。

この歌を聞くと、地歌『珠取海女』のことをおもいだします。私の大好きな作品のひとつで、遥か古代の海の民のロマンを秘めた、雄大で人間味があり、ドラマツルギィーに満ちた物語です。

話は、少し横道にそれましたが、からくり人形などを携えてきた人達も海の民だったんでしょうか?こんなことを思うと楽しくなりませんか?
からくり的』というひとつの作品を定点にして、遥か古代に想いを馳せたり、この作品に携わってきた人達やもの・歴史、そしてその背景と心を広げていく・・・なんてすてきなんでしょう!

私はいつも思います。舞を舞っているときに・・・
悠久の歴史の流れのなかに身を置いて、その時代のひとたちのことを想うと舞ということを通して、一瞬にしてそのひとたちに出会える・・・。
そして、紛れもなく、日本民族の舞の系流の中を生きている・・・。
こんなときです、私が舞を続けてきてよかったなあと思うのは・・・。
こころがとっても豊かになります。

その反面、責任を感じます。
私も、精一杯その流れの中をいきて、
先人への感謝のこころを忘れず、
次代へと継いでいかないと・・・。

まだ、少々自信はありませんが・・・、ガンバリマス。力こぶ

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